大坊の歴史



大坊コミュニティ推進協議会10周年記念誌より抜粋
【ご自由にお持ち下さい。】
(編集/(株)大坊保養センター支配人)



地名の由来

吉田東伍編さんの「大日本地名辞書」(明治三十九年版)に「大坊とは放光寺の遺名にて、熊野堂
即是なり」とあり、鎌倉時代に岩楯郷給主曽我氏が厚く保護し、深く崇敬した放光寺と熊野堂の名残
の地名だとしている。
また、「角川日本地名辞典」には「中世に曽我氏が創建した薬王山放光寺という大きな坊堂に由来・・」
とあって、いずれも鎌倉時代の寺社にちなんだ地名説をとっている。
放光寺や熊野堂とは、鎌倉時代に平賀群一帯を支配した曽我氏が尊崇した寺社で、曽我氏が残した
建武二年(一三三五年)の文書に次のように記載されている。

岩楯分
一所 熊野堂 古所 子細ニ申ストコレハ別ニ国宣ヲ御寄進賜ル
一所 放光寺 武蔵前司入道殿御建立也御下文元弘三年十月三日夜焼失セシメタリ

とあり、熊野堂は陸奥国司北畠顕家の国宣をうけている名社で津軽では第一級の大社であった。
また、曽我文書の別な文書には熊野堂は田村将軍造起の処なりと明記している。津軽には田村麻呂建立という神社がそこここに随分あるが、その多くは明治に入ってから書かれた神社由緒書に田村麻呂を結びつけただけのものが多い。

その点、ここの熊野堂は六百六十四年前の古文書に堂々と書き入れられ、国司もそのことを認めて国宣を下賜しているのだから、津軽においては破格の名社だったといえるのである。
また、放光寺は武蔵前司入道殿御建立とあるから、鎌倉幕府第一の権力者北條家の三代泰時の頃に建立された古刹(こさつ)ということになる。北條家からの御下文(おくだしぶみ)は元年(一三三三年)に焼失したとあるから、兵火に羅って大迦藍とともに焼け失せたのだろうか。しかし、熊野堂
も放光寺も曽我氏滅亡とともに急速に衰徴し、その場所さえ定かでなくなった。

後年の創作だろうが、大坊・小栗山・岩木山の三姉妹神の山争い伝説が大坊に、また小栗山と岩木山の二神による山争い伝説が小栗山に残っている。小栗山の伝説はさておき、大坊の伝説は大事に後代に語り伝えるべきであろう。
この伝説も結局は熊野堂や放光寺の広壮華麗さと曽我氏の強大さをバックにした、地域の人々の心意気を天下に示したものにほかならない。
けだし、大坊の名にピッタリした伝説である。

地名の由来
  吉田東伍編さんの「大日本地名辞書」(明治三十九年版)に「大坊とは放光寺の遺名にて、熊野堂
即是なり」とあり、鎌倉時代に岩楯郷給主曽我氏が厚く保護し、深く崇敬した放光寺と熊野堂の名残
の地名だとしている。
  また、「角川日本地名辞典」には「中世に曽我氏が創建した薬王山放光寺という大きな坊堂に由来・・」
とあって、いずれも鎌倉時代の寺社にちなんだ地名説をとっている。
  放光寺や熊野堂とは、鎌倉時代に平賀群一帯を支配した曽我氏が尊崇した寺社で、曽我氏が残した
建武二年(一三三五年)の文書に次のように記載されている。
  岩楯分
  一所 熊野堂 古所 子細ニ申ストコレハ別ニ国宣ヲ御寄進賜ル
  一所 放光寺 武蔵前司入道殿御建立也御下文元弘三年十月三日夜焼失セシメタリ
とあり、熊野堂は陸奥国司北畠顕家の国宣をうけている名社で津軽では第一級の大社であった。
また、曽我文書の別な文書には熊野堂は田村将軍造起の処なりと明記している。津軽には田村麻呂建立という神社がそこここに随分あるが、その多くは明治に入ってから書かれた神社由緒書に田村麻呂を結びつけただけのものが多い。
その点、ここの熊野堂は六百六十四年前の古文書に堂々と書き入れられ、国司もそのことを認めて国宣を下賜しているのだから、津軽においては破格の名社だったといえるのである。
また、放光寺は武蔵前司入道殿御建立とあるから、鎌倉幕府第一の権力者北條家の三代泰時の頃に建立された古刹(こさつ)ということになる。北條家からの御下文(おくだしぶみ)は元年(一三三三年)に焼失したとあるから、兵火に羅って大迦藍とともに焼け失せたのだろうか。しかし、熊野堂
も放光寺も曽我氏滅亡とともに急速に衰徴し、その場所さえ定かでなくなった。
  後年の創作だろうが、大坊・小栗山・岩木山の三姉妹神の山争い伝説が大坊に、また小栗山と岩木山の二神による山争い伝説が小栗山に残っている。小栗山の伝説はさておき、大坊の伝説は大事に後代に語り伝えるべきであろう。
  この伝説も結局は熊野堂や放光寺の広壮華麗さと曽我氏の強大さをバックにした、地域の人々の心意気を天下に示したものにほかならない。
  けだし、大坊の名にピッタリした伝説である。



大坊の歴史

寛文時代 大坊村が文献に初めて見えるのは「郷村牒」という書物で、この近在では四ツ屋・石郷とともに一番遅く寛文四年(西暦一六六四年)から寛文十二年まで間に出来た村され、平賀庄新田の部に「千二百八十一石三斗大坊村」と記載されているから新田として発足してから三百二十年位しか経ていないことになる。しかし、享保十六年(一七三一年)に完成した「津軽一統志」には、天正七年(一五七九年)の六羽川の合戦のときに、大浦為信は本陣を「大坊岩館村」に定めたと記載されている。また、中郡相馬村紙漉沢の成田商店に伝わる成田氏由緒書に「天正年中大坊村にて知行三〇石下しおかれ、御奉公申し上げていたところ、慶長五年美濃の大垣御陣へ御共申し上げ奉り・・・」とあって、天正の頃には未公認ながら大坊村が存在していたようである。
紙漉沢の成田家の先祖佐衛門次郎は、慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の戦いに手柄を立て大坊に帰ってきたが、紙漉沢にあらたに知行五〇石を賜ったので、大坊の三〇石は弟弥助に与えて紙漉沢に移ったと由緒書に書かれている。弟弥助は、大坊に留まり小知行侍として奉公していたが、二代目藩
主信牧の元和五年(一六一九年)に幕府は津軽家を信濃の川中島に転封させることに決め、その内報が弘前に到来して転封の準備をしているとき、大坊の知行地を捨て川中島までお供したいと藩主に願い出たのである。このように小知行の願いでは八三人もあり、これを国替い八十三騎といったが弥助もその一人だったのである。
  小知行の弥助は名字を名乗られず「大坊村弥助」として願い出たが、転封はその後中止となり、八三騎の小知行は百石に加増されて立派な武士に取り立てられた。弥助も七十石加増されて百石となり、本姓成田を名乗った。
  このようなことから推察しても、かなり前々から小さな村落があり大坊村と呼ばれていたと思うのである。


天保年代津軽藩四代信政の時で大坊村が新村として発足して二〇年足らずの天保四年(一六八四年)に領内全部の村々から書上帳と村絵図を提出させたが大坊の村絵図を故葛西覧造氏が昭和一七年に書き写したので、その当時の村の状況を知る好資料として残った。これによると当時の村の戸数は十八軒でその名前は庄屋助兵衛・御百姓茂右衛門・三右衛門・助四郎・喜助・勘三郎・伍右衛門・弥五右衛門・権左衛門・次郎右衛門・平右衛門・惣左衛門・作右衛門・佐左衛門・太郎左衛門・四朗右衛門・清兵衛・四郎左衛門の十八人である。
また、村絵図を見ると本村と枝村があり、その間を庄司川北流している状況や権現堂が現在の熊野神社と同じ場所に祀られていたことが判る。この権現堂は薬師権現を祀ったとされているから、現在熊野神社奥院に納められている懸仏の薬師如来が御本尊だったのであろう。
権現堂の境内は百四十坪あって杉二本、雑木三十八本が植えられていたが、そのうち杉一本は一丈廻りと記載されている。
村が出来てから二十年も経っていない大坊のお宮に大人二人でやっと抱えられる大木があったというのだから、二~三百年前からお宮があったのだろう。それが鎌倉時代からの熊野堂だとしたら大変な古社ということになる。

貞享年代天保四年に提出させた書上帳や村絵図を基礎資料として徹底した実測検地をした藩は検地水帳を貞享四年(一六八七年)に完成させた。この検地水帳に天保書上帳同様一八人の屋敷百姓が載っているが、四年前には名前のあった弥五右衛門・平右衛門・清兵衛の三人の名が消え、代わりに専右衛門・甚兵衛・弥兵衛の三人が入れ変わって記載されている。
田は、五七町歩余・畑は四町三反八畝歩・屋敷が七反歩余で全体の面積は六二町一反五畝歩余、藩で定めた米の生産量は七〇九石二高を持つのは
・六石二斗 太次兵衛 ・五石八斗 喜三郎 ・四石三斗 弥惣次 ・三石三斗 次左衛門
・三石二斗 助五郎  ・一石   半 七 ・四斗 長兵衛 
この七人は6~7反歩から三畝歩程度の田を耕作している。あとの九人は田は全くなく屋敷の裏畑を耕しているだけだから、ほかの職業について生活している人達であろう。その人名は孫七・権兵衛・久右衛門・与十郎・次兵衛・助三郎・左兵衛・孫四郎・左五右衛門の九人である。

  

安永年代安永七年(一七七八年)一二月に大坊村庄屋伊右衛門・五人組勘三郎・同長次郎が平川改修晋請のとき、自費を足して藩の工事に協力したので庄屋伊右衛門は鳥目一貫五百文、五人組の勘三郎と長次郎は一貫文ずつ藩から頂戴した。庄屋伊右衛門の子孫は不明だが勘三郎は大湯百衛氏、長次郎は相馬精五郎氏の先祖である。

天明年代天明二年(一七八一年)に始まった「天明大飢饉」は、津軽領が最も酷く荒れ、領民二十四万人のうち三分の一の八万人以上が餓死した。この辺りは、割合に実った地帯で一反歩につき、一俵程度はとれたといわれ、悪性流行病で死亡した者はあったけれども餓死者は一人もいなかったといわれている。
この飢饉のときに藩は他領米を買いつける資金として領民から調達金を求めたが、大坊村からは万助だけが申付けつけられたらしく、藩日記には次のように書かれている。
「天明三年(一七八二年)九月四日
御用これ有るにつき、来る八日迄罷上り候様 大坊村 万助」
万助の名は天保・貞享・宝暦・安政・明治初年の書上帳のいずれにも出ておらず、確定的にいえないが宝暦八年(一七五八年)の調べにある勘十郎を追跡していくと斎藤氏なので、斎藤勘十郎が万助の子孫であるような気がする。

文化年代文化8年(一八一一年)八月に大鰐組、尾崎組、大光寺組の内、田所の一六カ村の百姓約五百人が徒党を組んで強訴するという大事件が起き、この近在の百姓たちも厳しい取り調べをうけ、過酷な刑罰を受けた。
この事件の発端は、草山を持たない田所の小金崎から北方の村、岩館から杉館までの川沿いと高畑・吹上・柏木町などから草や柴を伐る山を払い下げてほしいと藩庁にほしいと願い出、郡奉行から許された。場所は三ツ目内村の芝之沢ということで各村の百姓たちは大喜びで入山しようとしたところ、山役人がいて山の入り口から追い返されてしまった。各村を代表して許可を得た石郷村庄屋田中兵助はその話を聞いて百姓五百人を引き連れ、再び山に向かった。山役人は藩庁からそのような連絡がないと言い張って再び追い返そうとしたので、兵助は烈火の如く怒り、百姓たちを指揮して強行入山しようとした。
入山を阻止しようとする山役人と激こうした百姓との間に大乱闘が起こり、小勢の山役人は散々な目に遭って一日目は終わった。
その翌日、石郷の田中兵助と原田の伝十郎枠伝兵衛が首謀者となって弘前の藩庁に強訴することになり各村の百姓五百人が行動を起こしたが取上の処刑場(陸橋をすぎると間もなくの花田商店裏)近くだ豪雨に遭い、弘前までいけず引き返したので大事には至らなかった。
しかし、軽輩といえども武士たる山役人を打ちのめした罪は重い。
この乱闘、大坊からも多数参加しただろうが最も華々しく行動したのは、四五左衛門二男権太との清松の二人であった。
藩は、二人を召し捕り、同年十二月二十四日次のように断罪した。

「          大坊村四五左右衛門二男 権太


  我儀当八月大勢ニテ居土村ヘ罷越シ山役人打擲ニ及ビ候趣相聞コヘ入牢ノ上御檢議ノ処前日
召捕ワレ候仮子貰ヒニ罷越シ留守跡ニ連レ帰リ候旨申シ分ニ候ヘ共大勢ニテ山役人引立テ参リ候
儀相違コレ無ク然レバ我レ頭取ニテ山役人手篭ニ致シ諸役人捕取候者我侭ニ連レ帰リ候ノ儀重々不届至極ノ者ニ付キ鞭刑二十一行ワレ三里四方追放仰セツケラレル」
 このように権太は鞭で二十一打され、居村大坊から三里四方追放に処せられ、清松は山役人の脇差しを奪い取って苗代に捨てた罪を問われ、鞭15行われ、追放はなかった。二人は十二年後の文政五年に大赦があって復権した。
 文化十三年(一八一六年)三月二十日に、弘前城に掃除小人として出仕大坊村市郎が永の暇を仰せつけられ、大坊に帰った。

  天保年代天保六年(一八三五年)九月に大坊村鳥取喜右衛門が駒木村で鶴を生捕り、藩庁に上納したが、十月七日に死んだ旨、藩日記に記載されている。ただし、喜右衛門には代銭五十匁下し置かれた。
天保七年(一八三六年)九月に、大坊村勘三郎が調達金上納を賞され、酒肴を下し置かれた。

安政年代安政七年(一八六〇年)二月の調べによると大坊村の家数は五四軒で、田畑を耕作している農家の石高は次のとおりであった。

・八七石六斗 喜 助・一五石三斗 常之助・二石 藤左衛・三斗 藤 七
・六三石六斗 文次郎・一四石五斗 源次朗・一石七斗 権之丈・三斗 弥五右衛門
・六〇石六斗 次佐衛門・一一石五斗 吉左衛門・一石五斗 作十郎・三斗 権左衛門
・三八石三斗 勘三郎・八石六斗 権九郎・一石二斗 喜 八・三斗 喜 六
・三五石   藤三郎・八石五斗 源三郎・九斗 与十郎・二斗 弥左衛門
・三四石一斗 甚十郎・八石三斗 助四郎・八斗 次郎助・二斗 長四郎
・三〇石二斗 喜三郎・六石九斗 四郎左衛門・七斗 金次郎・二斗 仁太郎
・二六石四斗 四五左衛門・五石八斗 次三郎・六斗 佐右衛門・二斗 助 助
・二三石八斗 五右衛門・四石九斗 喜兵衛・五斗佐五右衛門・一斗 吉五郎
・一九石六斗 三右衛門・三石七斗 喜之丞・四斗 九四郎・一斗 萬三郎
・一九石五斗 八右衛門・三石六斗 与三郎・四斗 彦 作
・一七石九斗 藤十郎・二石四斗 喜太郎・四斗 久太郎
・一七石三斗 権四郎・二石   兼次郎・三斗 長三郎

以上の四九軒の外に五軒あるのだが一斗にも満たない零細な石高で作之丈五升・弥七郎四升・三左衛門二升・惣左衛門二升・三十郎五合という順であった。
 石高が八石以下の住民は、大工・左官・屋根葺・鍛冶・木挽・馬細工・馬車引などの雑業などのほかに小売商などの商売で生活していたものであろう。その他にも武士の仲間、大百姓の仮子などに雇われて生活の糧を得ていたものと思われる。安政の頃の大坊村は、喜助に石高が最も多く八七石余りであるが、岩館の斎藤甚助が大坊領を八町五反歩程所有し、その石高は喜助より多く九〇石七斗となっている。

明治初年明治に入ると大坊村にもちょっとした異変が起こった。岩館の斎藤甚助が所有していた八町五反歩の田地が藩に強制買い上げされ、録を失った藩士たちに分配されたが、大坊に帰農した藩士は一人もなく、分配された田地を二束三文に売って大坊には土着しなかった。
 運良く、超安値で田地を買った雑業の人々も、土地百姓となれる絶好の機会だったのである。
 明治十二年(一八七九年)の調べでは、一人役以上の耕作者は五十一人でその人役は次のとおりであった。

・四九人役 古川長之助・二二人役  三浦喜之丞・八人役  斎藤謙次郎
・四五人役 中畑寅吉・二一人半役 大湯藤十郎・八人役  三浦久四郎
・四四人役 斎藤源三郎・二〇人役  成田権左衛門・七人役  中畑喜八
・四四人役 古川文次郎・一八人役  成田亀太郎・七人役  斎藤三郎
・四一人役 大湯藤兵衛・一五人役  斎藤勘次郎・六人役  斎藤常之助
・四一人役 大湯太助・一四人役  斎藤権之丞・六人役  古川弥五右衛門
・四〇人役 三浦喜兵衛・一三人役  大湯与三郎・六人役  大湯八三郎
・四〇人役 三浦常吉・一三人役  相馬元吉 ・五人半役 大湯丑松
・三八人役 中畑丑太郎・一二人役  大湯要助 ・五人半役 大湯藤三郎
・三五人役 古川清太郎・一一人役  下山清太郎・五人半役 古川長四郎
・三〇人役 成田五右衛門・一〇人半役 三浦佐左衛門・五人役  大湯仁太郎
・二九人役 斎藤甚十郎・一〇人役  斎藤専助 ・五人役  古川長三郎
・二六人役 中畑治左衛門・一〇人役  斎藤三五右衛門・五人役  斎藤三右衛門
・二三人役 斎藤吉左衛門・一〇人役  中畑喜六 ・三人役  斎藤永吉
・二三人役 古川又吉・一〇人役  斎藤吉郎 ・三人役  佐藤亀吉
・二三人役 対田茂助・ 九人役  岩淵萬十郎・一人半役 大湯藤左衛門
・二二人役 大湯与十郎・ 八人役  古川弥左衛門


 この反別を集計すると、九一七人半役であるが、石畑などからの越し石があるので、大坊領の田の総計は九四二人役となる。
この明治一二年に田を耕す農家は五〇戸であるが、この頃編集された「新撰陸奥国誌」には、大坊の戸数は六四軒と記載されているから、一四軒は零細な畑耕作者かまたは屋敷しかない雑業者だったのである。
また、この年の人口は男二〇一人・女一八五人・計三八六人・馬四二頭・物産は米・餅米。明治十年に岩館小学を大坊字前田に招致して大坊小学と改称した学校の教員は二人で、生徒数は五十四人(男子のみ)とも記載されている。

大坊の草分け大坊の草創期から明治初年まで四回に分けて全世帯を調べてみると、天保四年(一六八四年)すなわち草創期の一八軒の内、現在子孫の判明するのは三右衛門(斎藤美千郎氏先祖)・喜助(中畑隆治氏先祖)・勘三郎(大湯百衛氏先祖)・五右衛門(成田平策氏先祖)・権左衛門(成田繁夫氏先祖)・助四郎(斎藤惣之助氏先祖)の六人しか判然としない。それから七四年後の宝暦八年(一七五八年)から子孫の判るのは、甚十郎(斎藤辰正氏先祖)・五兵衛(大湯貞次氏先祖)・長四郎(相馬清五郎氏先祖)・四五左衛門(古川清八郎氏先祖)・喜兵衛(三浦長一氏先祖)・吉左衛門(斎藤欣一氏先祖)・次左衛門(中畑耕作氏先祖)・与十郎(大湯実氏先祖)喜三郎(三浦安文氏先祖)の九人が判然とする。この頃の庄屋伊右衛門や天保六年(一八三五年)に鳥取をやっていて鶴を生け捕った喜右衛門などの子孫はどうなったのか判然としない。
安政六年(一八五九年)の田畑持高帳に初めて名前が載り、現代に子孫が大坊に残った者は源次郎(斎藤貞造氏先祖)・仁太郎(大湯武雄氏先祖)・藤左衛門(大湯亀太郎氏先祖)・弥五右衛門(古川正一氏先祖)・三五右衛門(斎藤久男氏先祖)・八右衛門(大湯八右衛門氏先祖)・与十郎(大湯実氏先祖)・吉五郎(斎藤兄永氏先祖)・三左衛門(下山鉄太郞氏先祖)の八人のようである。
明治に入って大坊の戸数は六〇軒になっていたが一人役以上の耕作者は五一軒であった。
この五一人のうち、今までに判明した子孫を除くと明治一二年の時点で九人だけ判明する。
その子孫の名を挙げると古川長之助(道雄)・三浦常吉(安文)・中畑丑太郎(精五郎)・対田茂助(健二)・成田亀次郎(美千彦)・斎藤勘次郎(清代春)・岩淵万十郎(辰雄)・大湯丑松(徳雄)・大湯八三郎(八三郎)・の諸氏であるが、この他に子孫不明がたくさんあるので明治時代の除籍簿によって大坊の古老の力を借り子孫判明に努めてみたが、かなりの子孫名は判明しなかった。

明治後期明治二二年四月、町村制施行によって大坊村は柏木町村大字大坊と改められた。
大坊・岩館・原田・小杉・石畑・四ツ屋の六大字を学区とした大坊小学校は、明治三十年に字竹原に校舎を新築移転した。
明治時代には日清・日露の二つの大戦争があって大坊からも多くの出征兵士が戦場に向かった。日清戦争には二十人の若い兵士たちが満州で露兵と戦った。その氏名は中畑永太郎・中畑弥太郎・大湯太郎・古川喜助・古川作太郎・大湯萬太郎・大湯長之・中畑与一市・斎藤東太郎・中畑弥吉・大湯友
太郞・三浦惣之助・大湯嘉七・佐々木春吉・中畑米吉・大湯左吉・岩淵多吉・岩淵藤助・古川仁三郎・中畑浅五郎である。このうち、中畑永太郎は明治三十八年三月七日奉天郊外で戦死し、無言の凱旋をしたが、他の十九人は生還した。
明治二十八年暮れから翌二十九年秋口までに大坊の人が三人も流死するという事件があった。
支村寒川の大湯重太が二十八年十二月八日門外村の工藤医師に薬代を持参して一杯頂戴しての帰り、大和沢川落合の上で川に落ち流死。
明治二十九年二月中旬には、三浦喜三郎長男常吉が三ツ内川に馬諸共に落ち流死。同年九月には相馬長四郎別家定吉が大坊渡りで流死した。
三浦常吉は山登りの若者へ荷持つと飯米を届けに行き、帰路三ツ目内村で同行した者たちと一杯飲んでの帰りに橋から落ちて流死したのだが、二月中旬の山登りとはどんな作業のことだろうか。残雪を利用しての材木運搬ではなかろうか。
また、相馬定吉は秋餅廻しに弘前から清水森に回り、その帰路だというから酒を頂戴しての事故死ではなかろうか。三人とも酒で多少普通でなかったかもしれないが、大坊の歩渡りは大変危険な場所だったのである。


熊野神社

 熊野神社について書き残されている書物がたくさんあるが、由来などについてはマチマチの書き方をしている。
まず、弘藩明治一統誌・神社緑録には、
「旧平賀郡大坊村熊野宮
伊弉郡岐命
祭 神
伊弉郡美命
当社創立ハ大同二年田村将軍蝦夷退治ノ際、魁首大獄丸ヲ討テ其首ヲ埋葬シ其際賊用ユル所頬面二枚アリ是ヲ其首塚ノ堂社ニ納メ薬師権現ト内獅子、外獅子ト名付ルハ是頬面ノ事ナリ。明治二年熊野宮ト改正スルモ明治六年四月村社ニ入ル」と記載されている。
また、南津軽郡是という書物には

村 社 熊野宮 伊弉諾尊
伊弉册尊
六月十四日 同柏木町村大
字大坊字前田

 由緒
「大同年中田村将軍鬼神退治ノ折用ヒラレタル頬面二枚アリ古老ノ伝言ニヨレバ古王獄丸ノ首葬セルガ故ニ勧請シタル云云 本殿ニハ薬師如来王獄丸懺悔記ス 前ニハ内獅子ト頬面二体ヲ安置ス 合わせて薬師権現ト称シタル所 明治四年故アリテ熊野神社ト改ム」と記載されてり、熊野宮と改めた。
年号が合わない。どちらも頬面二枚には触れているが、これは雄雌一対の獅子頭のことを指すのであろう。その獅子頭(権現様)も薬師如来「座像、高さ十五糎の懸仏も共に現存しており、熊野神社の古さを物語っているのである。
更に明治四年(一八七一年)の調査による藩内神社調には
「大坊村         並勤  小山内為織
一. 熊野宮   当村産神          一. 鳥居    二宇
一. 祭神    伊弉諾・伊弉冉尊      一. 神橋    二ヶ所
一. 祭日    四月八日 八月十四日    一. 社地    四間四方
一. 本殿    四尺五寸二六尺五寸 板葺  一. 造営    当村中ニテ
一. 佐屋    一間半二二間五尺 萱葺   一. 藩庁マデ  一里半

  

※ 社司並勤小山内は先祖修験弘秀院儀で長養院まで十代修験を称して後、小山内為織と改名する。」
とあって、今にように拝殿はなく、本殿(今の奥院)を鞘堂で外がこいをしていたのである。
また、祠掌の修験小山内とは水木(常盤村)の山伏で最近まで代々大坊村の受持だった小山内氏のことである。
次に明治十二年頃に編さんした新撰陸奥国誌」には、次のように記載されている。
「熊野宮 境内百四十坪 本村の東北の間二丁目畑の中にあり
祭神 櫛御食野神
相殿
月読神   旧小杉村に鎮座ありて小杉四ツ屋石畠三村の土産神なりしが明治五壬申迂(うつ)し祭る。
本社   六尺四面南向板葺
鳥居   二基
鎮座の年代詳ならず 岩館村神明宮の祠堂斎藤実兼司る」と誌されている。
明治政府は、明治五年に神社の統合を推し進め、小杉の月読神を大坊に、原田の神明宮と石郷の闇靇神を岩館に移遷させて合祭させた。
そして大坊も岩館も地元の斎藤実に祠掌させたのである。この土産神の強制合祭は各村の親睦に重大な亀裂を生み、互いに憎悪するようになったので二~三年後には元の鎮座地に返されたのである。もちろん、小杉の月読神も小杉へと帰っていったのである。
明治に入って間もなく大坊の鎮守薬師権現堂が熊野宮と改められ、薬師如来と権現様は置けなくなったのだが、大坊ではこの仏体をどうしただろうか。
現在熊野宮本殿に保存されている薬師様と権現様は古川清八郎氏の屋敷にあった御堂の中に安置されてあったのを、お宮の方に移したのだと云うことを古老の座談会で知った。
明治政府の厳しい神仏仕分の命令によって仏像、仏体をお宮から引取り古川氏の御堂に移し祠って嵐の静まるのをまっていたのだろう。
そして明治の終わり頃になって神仏仕分が全く問題にされなくなった時点でお宮の方に移遷したと見るべきであろう。この風潮はどこの村でも同じで、当時の住民は昔から信仰してきた権音様や薬師様をお宮に再祠しているのである。
また、熊野宮の拝殿は少なくとも明治十二~三年頃まではなかった。
今の拝殿を建築したのは明治末期頃というから約八十年前のことである。おそらく今の拝殿建築までは本殿だけで拝殿はなかったものと推察できる。拝殿完成とともに前記の仏体も奉遷したのであろう。権現様も時々村廻りをしたものだというが、子供らの遊び道具にもされ、泥まみれになったこともあったという。

殿づけの家柄

 大坊の旧家には殿づけで呼ばれた家柄が多かった。勿論どんな名家でも家運の浮き沈みはあるが、大抵はその村を取り仕切った家を尊敬して殿づけで呼ぶことが多い。
まず、喜助殿(喜助ド)・・・中畑隆治家は天保の書上帳から連綿と名を連ねているから、大坊の草分けの一人であろう。庄屋もかなりやった。
藤兵衛殿(藤兵衛ド)・・・大湯百衛家も三百五十年前の天保四年から続いた家柄であるが、最初は勘三郎を名乗っていたので長いこと藤兵衛である事が判らなかった。藤兵衛家であることを知り得たのは、天保十一年(一四九年前)の同家の日記に「大湯藤兵衛事大湯勘三郎」とあったことから幕末まで勘三郎であったのである。藤兵衛は幕末から庄屋をやった。
隠居殿(エンキド)・・・古川清八郎家は、四五左衛門を襲名してきた家柄であるが、なぜエンキドなのか曖昧だが、ともかく殿づけである。古川氏の屋敷は、古図で見ると天保の頃、庄屋をしていた助兵衛の屋敷となっている。
助兵衛は、庄屋を命じられるほどの人柄であると同時に酒造業も営んでいたから大坊随一の豪家であったろう。しかも、四五左衛門家は三百年以前には出ていず、宝暦頃から記録に出て来るから、豪家助兵衛の隠居家で二男か三男が家を起こし、四五左衛門を名乗ったのではなかろうか。
萬助殿(万助ド)・・・斎藤辰正家・・・酒田市転住。この家は、岩館斎藤甚助家の娘が三ツ目内村から婿を取り大坊に分家した家であるが、岩館斎藤家との血脈が切れ、辰正代に身代をなくし村を去った。
喜兵衛殿(喜兵衛ド)・・・三浦長一家は、三浦族の本家筋といわれているとも聞くが、実否の程は判らない。しかし、三浦族では、三浦安文家と共に一番古い家柄である。
権四郎殿(ゴンシド)・・・対田健二家は、草分けの家柄ではなく、江戸中期に他村から入った家のようだが、殿づけで呼ばれた家柄だという。

熊野神社

 一番姉神を祀った大坊
美しい三姉妹が出羽国(秋田県)から津軽に入って来て岩木山と小栗山が一番よく見える大坊川原で一休みした。そして三女神は約束をした、その約束とは一番先に岩木山に登った神は岩木山に小栗山に登った神は小栗山に、どちらも行けなかった神は大坊に、それぞれ祀られることだった。そして三女神は昼寝に入った、一番若い末女神は姉女神の二女神には負けず一番早く岩木山に登る自信があった。旅の疲れでグッスリ寝込んだ姉神を尻目にそっと起きると足早に岩木山へと走り去った。
しばらくして二番目の姉神が目を覚まし、これまた一目散に小栗山へと走って行った。
最後に目を覚ましたのが一番姉神であった、辺りを見廻すと二女神がいなかったので、長姉神は遂に大坊の神様となって大坊を守ることにしたのである。
大坊の村人たちは、この一番姉神を深くあわれみ、厚く祀ることにした。そして岩木山神社にも小栗山神社にも決して参拝しないことを誓った。
だから、大坊の村人は岩木山にも小栗山にも参詣することなく、大坊の神様を一番尊んだのである。

津軽一の米どころとなった大坊
大坊は大昔から寺があって坊さん(修験)がいた。その頃の大坊とその付近はまったくの原野で狐や狸を始め、たくさんの動物が住んでいた。
あるとき、寺の僧が原野に出てあたりの動物たちの仕草を見ていると狐が盛んに草の実を食べていた。狐が食べている草なら食べられるだろうと、その草の実を食べてみるととても美味しく、これなら食料にと思ってたくさん取り寺に持ち帰り、煮てみるとそれは米だったのである。僧はその稲の実を更にたくさん取り集め、大坊の村に分け与え耕作する方法を教えた。大坊は、見る見るうちに米の生産地となり津軽大里ともいわれ、一番の米どころとなった。
津軽の人々はそれから大坊の人たちから稲種を譲られ耕作の方法を教えられたので、それぞれの村に帰って稲を植え付けやっと安定した生活をすることができたという。

大坊川原の狸の仇討
昭和の初め頃、大坊川原の大湯亀次郎(今は故人亀太郎さん)の畑で大きい牡の古狸が捕まった。
そこまでは、何の変哲もない話なのだがそれからが大変だった。
牝狸の復讐が始まったのである。まず、狸汁に舌鼓を打った連中の寝床の窓に来て、家人の寝静まるのを待って「ワ(私)、ナド(お前ら)に喰われた男狸のアパ(妻)だぢゃ。オヤジ(夫)の仇ダキャ、必ずとって見ヘル(見せる)ハデ」と凄みをつけた声色(こわいろ)で言い放って廻ったというのである。舌鼓を打った若者たちは、それから身の縮む思いで日々を過ごさねばならなかった。
しかも、牝狸の呪いの言葉どおり、舌鼓を打った人々が次々若死にしていったという。
その次には、大坊小学校に飾られた夫に毎夜の如く面会に来て廊下を走り回り、宿直の先生を竦ませるのであった。
今でも大坊小学校には、その剥製があるはずだが何人もの命に関わったものであるから大切に保存してほしいものである。
また、牝狸が死んだと思われるころから、バッタリ牡狸に会いにこなくなったそうである。
 



大坊温泉の歩み

昭和42年1月・温泉湧出。
2月・大坊温泉実行委員会組織。
2月・大坊公民館建物を温泉建物として利用することを決め、引屋する。
5月・大坊温泉利用協同組合設立総会開催。
6月・建物工事完了、旅館営業許可交付。
・県衛生研究所より温泉分析検査書交付。
9月・飲食店営業許可交付。
昭和43年3月・貯湯タンク新設。
6月・温泉営業開始。
8月・国民保養センター建設打合。
9月・国民保養センター地質調査。
12月・国民保養センター工事開始。
昭和44年7月・国民保養センター落成式。
9月・国民保養センター、平賀町と温泉組合が経営委託契約を交わす。
昭和47年4月・第1回ボーリング。
8月・浴場新築。
・大月みや子宿泊。
昭和49年7月・全日本ウェイトリフティング平賀大会、選手一行宿泊。
昭和52年7月・新館増築落成。
9月・青森国体、ウェイトリフティング選手宿泊。
昭和62年6月・国民保養センター平賀町より買収。
・有限会社大坊保養センター発足。
平成10年6月・温泉棟移転新築落成。
 
平成19年2月・大坊温泉利用組合解散。
6月・株式会社大坊保養センターに商号変更。
平成20年8月・宿泊棟リニューアル。